「かーしーて」って言えば済むのか?「ごめんなさい」って言えば済むのか?
これ、まだ子供達が小さくて、児童館や公園めぐりをしていた時に、どうしたものかしきりに考えていた事だ。あの頃は必死で、あっという間に過ぎてしまい、結論が出ないうちに忘れてしまっていたのだが、うにさんの一人ぼっち育児日記の「『貸して』という名の強奪」という記事を読んで再び考えている。
そして見えてきた。『かーしーて』も『どーぞ』も『ごめんなさい』も適当に考えていたら、後々の親子関係に重大な影響があるということを。
児童館や公園でよくあるおもちゃの取り合い。それを円滑に解決出来る魔法の言葉が『かーしーて』と『どーぞ』だった。でも、うちの子はみな、どちらも言えなかった。
当時、チャレンジの『かして・どうぞ♪』を相当気に入って見ていたはずなのだけど、実践となるとキビシイ。だって、貸したくないモンは貸せない。
コミュニケーションが上手で活発な女の子などは、かして・どうぞで仲良く遊べたりしていて、それをきっかけにママ同士もおしゃべりに花が咲いたりする。それを横目で見ていて、『いいな~』と思っていた。そう、当時私はママ友がいなかった。ぼっち子育てだったのだ。
以前書いた騒音問題があり、児童館や公園には行き過ぎという程通っていたのだが、子供達は児童館ではおもちゃを、公園ではブランコやお砂場セットを、とにかく目新しいモノはたいてい争奪戦になった。
ウチの子達は使いたいおもちゃがあると、たいていは、ずうーっと狙っていて、お友達が目を離したスキにかっぱらっていた。あっちゃー。次男に至っては、取られないようにお家(室内にある滑り台付きの遊具)の中に持って行き、隠れて遊んでいた。まるで犬が犬小屋にゲットした骨を隠すかのように…。
「かーしーてっ」と言われちゃったら、どうしていたのか…無視だ。完全ムシ。
保護者である私はどうしてたのだろう…たしか困ったなあと内心焦りながらただ見ている事が多かったように思う。
「ほら、お友達が貸してって言ってるよ。いいよ、しようね」
とか、
「いいよ。ができたらお兄ちゃん!エラーい!」
とかは何となく抵抗があり、他のママのようには言えなかった。こっちだって、ずーっとあのおもちゃ狙ってたんだものね…。
さぞかし、変な親子と思われていただろう。そのせいで、ママ友が出来なかったのかもしれない。
もちろん、貸してあげられた事もある。長く同じおもちゃを使っていたら、「みんなのおもちゃだから、お友達にどうぞしよう。」と言って貸してあげられた事もあるし、同じアパートの子がどうしてもうちのシャベルが使いたくて、癇癪を起こしそうになった時はさすがに、「貸してあげようよ。」と言ってすんなり貸してあげられた。子供心にもこれはもう貸すしかないと思ったのかもしれない。
今思えば、「まぁってね~」と子供に言わせるとか、私が「今、使ったばっかりだから、もうちょっと待っててね~」と助け舟を出せばよかったのだと思う。
でも、当時、もし仮に仲の良いママ友の子供が自分の子供に「かして」と言ったらどうだろう?私もママ友に気を使って貸してあげるように促すのではないか?子供の気持ちなんか無視して。
似たような事で、何か悪い事をしちゃった時、「ごめんなさい」と言わせなきゃいけない雰囲気にも違和感を感じていた。
ある時期、砂場でお友達の頭に砂をかけるのが楽しくて仕方がないという困った行動を繰り返す男の子がいた。ママが鬼の形相で、
「ごめんなさいは?お友達にごめんなさいは?」
と迫ると、男の子はわりと素直にかわいらしく、
「ごぉめんなしゃい」
と言える。でも、すぐまた同じ事を繰り返すので、この場合の「ごめんなさい」は限りなく軽く、単に「ごめんなさい」というセリフを言わされているにすぎない。
2・3歳の子供が「ごめんなさい」と言えるにこした事はないのだが、「ごめんなさい」が言えないとお菓子抜きになる程の事とは思えない。
その後幼稚園に入り、このママを含む数人で話していた時、
「ごめんなさいってウチの子、なかなか言えないんだよね…言えばよいってもんでもないと思う。」
と私が話したら、今では私の1番の友達のT子さんが、
「いや、悪い事したら謝るってのは基本でしょ。それはきちんと言わせないとダメでしょ。」
言い、
「そう、そう。ごめんなさいだけは言わせないと。うちもそう躾てきたよ。」
と、そのママもT子さんに同調し、私は撃沈という場面があった。…そりゃそうなんだけどね…
でも、その後の付き合いを通して、今だから見えてくる事がある。あの時、2人は同じ事を言っていたのだが、T子さんとこのママの違うところは、T子さんが率直に人の基本としての「ごめんなさい」を教え込みたいのに対し、 このママは、世間体を気にする親の立場から「ごめんなさい」を言わせているという点だ。
今、男の子は5年生になるが、親子の関係は物凄く悪くなってしまった。
ママは子供が反抗期で言う事をきかないと、顔を合わす度に愚痴っている。話を聞くと、親子でしょっちゅうキレていて、壮絶なバトルの末、最終的に子供に泣きながらごめんなさいと言わせている。
宿題をやらなくてごめんなさい。ゲームばっかりしててごめんなさい。うちの次男と何かでモメれば、電話をかけさせられて、ごめんなさい。
何だかな~、と思う。君の為の宿題でしょ。何に対してごめんなさいなのだろう。敢えて言うなら、ママを怒らせてごめんなさいというところか。
5年生にもなり、友達とモメてごめんなさいと言いたいならば、本人が明日学校で言えば良い事だ。気を使って貰ってるのはありがたいのだが、きっと彼女は私に対して『うちは謝らせたよ』という実績を残したい気持ちが強いのだろう。
彼女は今でも何かにつけて、私は厳しく育ててます。なのに息子はバカすぎで困ります。というスタンスを崩さない。保護者面談では、「先生、言う事を聞かなかったら、やっちゃっていいですから。」と、先生がぶたないのを承知で暴力を容認する。
けれど私は、実は大いに甘やかしているのではないかと思っている。子供にしてみれば、取り敢えずママにごめんなさいと言っておけば済むのだから。もう少し、ごめんなさいとは何の為なのか、誰に対してなのか、ごめんなさいの後、自分はどうするのか、子供と一緒に考える事が出来たらいいのにと思う。
『かーしーて』に対する『いいよ』も、『ごめんなさい』も、幼児に強要する背景にはどうしてもママ友の目=世間の目を気にする親の不安がある。変なママって思われないように。子供が嫌われないように。どーいう育て方してんの?と怒られないように。
親も子供も皆と仲良くしていかなければならないのは勿論だし、子育てへの不安や孤独感からママ友に流されがちだけど、ここはひとつ、立ち止まって冷静に考えたい。
どんなに周りのママ達が楽しそうで、充実していそうにみえて、寂しい気持ちなっても、気持ちを強く。自分はママ友をつくる為に子供を産んだ訳じゃない。
ママ友を見て子供を見ない。子供を見てるようで見えていないでは、信頼できる親子関係など作れない。
そしてこのママ友の目を気にして子供の気持ちを組まない感じをずーっと引きずってしまっているママを私は何人も見ている。
他のお母さんの目を気にして、頭ごなしに怒る、謝らせる、自分の子は本当は1番可愛いくせに、人前でこれでもかとダメ出しをする。習い事はお友達と一緒という理由だけで決める。お友達が皆持っいるからという理由だけでモノを買い与える… そして、あっという間に子供は大きくなり、気がつくと、すっかり子供からの信頼を失ってしまって、一つも親の言う事を聞いてくれない。
こんな子育てになってしまうくらいなら、ぼっちで結構。ぼっちでもじっくり子供に向き合って、どんなふうに育てたいか模索したほうがマシではないかと思うのだ。
そういえば、よく行く公園や児童館が憂鬱だな、辛いなと感じた時は、ちょっと足をのばして遠い公園や隣の市町村の児童館に行った。母子共に良い気分転換なった。